茶道の魅力、その3です。
茶道は、「美意識」とりわけ「日本的美意識」を鍛える格好の場だと私は思っています。
「美意識」の定義は難しいですが、シンプルにいうと、「何を美しいと思うか」です。
そしてそれは、個々人の好みやセンスにもよるので、「正しい美意識」があるわけではないです。
また、とある国で「美しい」とされているものが、他の国でも「美しい」とされるとは限りません。
美の基準は、土地や文化、民族によっても異なると思われます。
つまり、日本にも「日本的美意識」というものが、長い年月をかけ、育まれてきました。
たとえば、「わびさび」なんて、まさにその日本的美意識を表す代表的概念です。
「わび」は「侘びる」のことですが、辞書には、「思い通りにならなくて落胆すること、淋しいこと、貧しいこと」といったネガティブワードが並びます。
「さび」は「寂び」ですが、こちらも「古びていること、枯れていること、寂しいこと」と、これまた普通に考えればネガティブな意味ばかりです。
でも、この一見ネガティブなものの中に「美」を見出す、これが、日本的美意識なんです・・・・。
おそらく、大陸ではただの飯茶碗だったであろう、左右対称でもない、欠けたお茶碗に、昔の茶人たちは美を見出し、風情を感じ、中には、今国宝にまでなっているものもあったりします。
ほかにも、岡倉天心が著書「茶の本」で、まさに「茶の心」を表すものとして引用していた、藤原定家(1162~1241年)が詠んだこの歌から伝わる情緒もしかり。
見渡せば
花ももみぢもなかりけり
浦の苫屋の
秋の夕暮
どうでしょう??
明確に意味が分からなくても、「なんか寂しい・・」風景が思い浮かびませんか??
でも、一方で、「なんか寂しい」気はするけど、その中に、
「情緒あふれたなにか美しいもの」
つまり、まさに「美意識」を、この歌から感じとることができるのではないでしょうか?
完璧あることに執着しない、完璧・完全でないものや、曖昧なものに「善」や「美」を見出す。
この感覚こそ、日本的美意識の素晴らしさであり、それがこれまでの豊かな文化を育んできたのだと思います。
そして、まさにこの美意識に触れることができるのが、茶道です。
茶道は、名もなき、古びたお茶碗にも美を見出した、昔のお茶人たちの審美眼が育んできた、文化芸術なのです。
完璧でないもの、ちょっと影のあるもの、見え隠れするぐらいの方が、むしろ美しく味がある。。。
何となく、ご理解いただけるのではないでしょうか・・・・。
では最後に、この記事の最初の、雲に見え隠れする月の写真を見ながら、「わび茶の祖」と言われる「村田珠光」の残した文をご紹介して終わりたいと思います。
「月も雲間のなきは嫌にて候」
「不足の美」を楽しむ「わび茶」の精神性、感じていただけましたでしょうか?(^ ^)