左写真:菅原道真(Wikipedia引用) 右写真:千利休(堺利晶の社HP引用)
前回は、「天神様(菅原道真)と源氏物語」について書きましたが、今回は、「天神様(菅原道真)」と「千利休」の共通点について、思い出したことがあったのでそのお話を。
利休さんが生きた時代、すでに菅原道真は「天神様」として崇められていました。
戦国武士たちも、菅原道真を崇敬していたからこそ、北野天満宮に多くの刀剣が納められていることは、前回の記事に書いたとおりです。
利休さんは武士ではないので、北野天満宮に刀剣は納めていないと思いますが、菅原道真を崇敬してたことは、利休さんが切腹により自害する約2週間前に残したと伝承されている、この歌から窺い知ることができます。
「利休めはとかく果報乃ものそかし
*「千利休由緒書」表千家不審庵蔵
菅丞相になるとおもへハ」
「菅丞相」とは、菅原道真のことです。
利休さんは、自身を「果報者(かほうもの)」と述べ、その理由を「菅原道真公になると思えば」と詠っているのです。
なぜか?
菅原道真といえば、その才能から時の天皇に重用され右大臣にまで上り詰めるも、政敵による「讒言(ざんげん)」によって太宰府に左遷され、そこで衣食住もままならず、窮死に追い込まれたと言われる人物です。(死後、復権し天神様になりますが。)
つまり、利休さんは、権力者である秀吉の怒りを買って自刃することになる自らの運命の背景には、菅原道真が太宰府に左遷されたのと同様、何者かによる讒言があるのだということを、この歌により暗示している(と考えられる)のです。
群雄割拠の戦国時代、常に至る所で陰謀は渦巻いていたことでしょう。
武士ではなくとも、権力者の側近であった利休さんが、何らかの政治抗争に巻き込まれたことは十分に考えられると思います。
(参考ブログ:千利休切腹の真相)
この歌は、京都を追放され堺に移動する直前、娘のお亀に渡して欲しいと書き置いたものと言われています。
利休さんは、この時すでに自分の最後を覚悟していたのでしょう。。。
そして2週間後(1591年2月28日)、自刃により80年の人生を終えました。
・・・ということで、権力者に近い立場でそれぞれの時代に活躍し、それゆえ、何らかの讒言によって最後の運命が決まってしまったという、菅原道真と千利休の共通点、ご理解いただけましたでしょうか??
(解釈は、私の解釈であり、諸説あることはご承知置きくださいませ。)
「天神様」と崇められる菅原道真、そして「茶聖」となった千利休。
傑出した才能をもち、死後、聖人となるような人の人生は、やはり相当にドラマチックです。
※「千利休由緒書」
利休の死の62年後(1653年)に、徳川家康の年譜作成のため、紀州徳川家の儒学者・李一陽と宇佐美彦四郎とが、江岑宗左(表千家四代家元・利休のひ孫にあたる)に、利休の伝記などを質問したものに対しての江岑の答えの覚書。表千家に所蔵されている。なお、その奥書から、原本ではなく、1666年に作られた書写本と考えられる。