不立文字〜大切なことは目に見えない〜

「星の王子様(サン=デグジュぺリ著)」の語り手の「ぼく」は、6歳の時に「象を飲み込んだ大蛇のお腹」の絵を書いて大人に見せますが、大人たちにはその絵は「帽子」の絵にしか見えませんでした。

そんな「見えない」大人たちに「ぼく」はすっかり幻滅し、以来、絵を書くのをやめてしまいます。「ぼく」は、やがて、仕方なく大人たちのレベルに合わせてあげて、大人たちが好む話題(ゴルフとか?)を話すようになりますが、本当に分かり合える友達に巡り会うことができずに寂しい思いをしていました。

しかし、パイロットになって、サハラ砂漠で出会った「星の王子様」だけは、その絵が「象を飲み込んだ大蛇のお腹」であるとすぐに理解してくれました。
「星の王子様」には、目には見えない「象」の姿がはっきりと見えていたのです。

さて、いきなり「星の王子様」のお話から始まりましたが、この世界的なベストセラーは、目に見える表層世界ではなく、その奥にある、内面的な世界が大切なテーマになっている小説です。

タイトルの「不立文字(ふりゅうもんじ)」とは、「文字に頼らない、文字であらわせない」といった意味で、次のような達磨大師のお言葉がもとになっている禅語です。

教外別伝 不立文字(きょうげべつでん ふりゅうもんじ)
直指人心 見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)

禅の教えというものは教えて教えられるものではない、また、文字であらわして説明することもできない、
個々人が日々の修行を通して学び納得していかなければ、「目覚める」ことはできないし、「成仏する(仏になる)」ことはできない、

といった意味です。

実は、茶道は歴史的に禅に強い影響を受けていますので、その精神性はこれと非常によく似ています。

たとえば、「お茶のいただき方」とか「お点前の作法そのもの」といったことを学ぶのが「茶道」だと思われがちですが、それ自体は必ずしも本質ではありません。

もちろん、お稽古ではそうした作法を学んでいただくのですが、茶道は「道」とつくとおり、点前の手順などを覚えたからといって、何かがすぐさま「完成」する類のものではない、ということです。(そんな単純なものだったら、面白くないとも思います。)

実際、千利休の孫の宗旦(そうたん)が残した次のような言葉があります。

「茶の湯とは、耳に伝えて目に伝え、心に伝え一筆もなし。」

・・・やはり、不立文字、なのです。

じゃあ、茶道では何が学べるの?と疑問をもたれそうですが、私自身が思うに、

「稽古」という「体験・行為」を通じて、身体性を伴う作法はもちろん、その背景にある精神性や文化、美意識などについて、「気づき」を得ていくもの、

というのが、今のところ、いちばんしっくりくるような気がしています。

禅が、坐禅や行住坐臥といった日常の行為そのものを修行と考え、その行為を通じて悟りを目指すのと似ています。

私自身も、悟りを目指しているわけではありませんが(笑)、想定外の「気づき」の連続だからこそ、茶の湯がやめられないのです。

(今の風潮だと、「こんなことが学べます」「こんなスキルが身に付きます」「2時間で○○ができるようになる!」みたいな感じが主流かもしれませんが、そういうんじゃぁ・・・ないんです。。。)

ですので、私も道半ば、修行中、でございます。

あ、小難しく聞こえたかも知れませんので念の為申し上げておきますが、茶道のお稽古は楽しいですよ^ ^。

修行的要素と遊興的要素の両方があるから面白いとも言えます。

そして、そうそうは真髄には辿り着けない、安易に言葉にできない、奥深いものだからこそ、数百年にわたって、理屈を超えて人を惹きつけているのだと思います。

参考 「星の王子さま、禅を語る」重松宗育著 ちくま文庫

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