少庵召出状と千家再興

徳川家康・蒲生氏郷連署 少庵召出状  表千家家元所蔵

茶の湯に馴染みのない方も、千利休(1522年〜91年)が、秀吉に切腹を命じられてその生涯を終えた人、ということは何となくご存知なのではないでしょうか。

なぜそこまで秀吉の怒りを買ったのかは諸説あり、正確なことは知る由もありませんが、事実、利休は秀吉の屋敷である聚楽第で自刃してその70歳の生涯を終えました。

利休には、二人の息子がいました。

一人は道安(どうあん。1546年〜1607年)といい、利休の先妻の子です。道安は、利休も一目置くほどの茶人であったとされています。秀吉の茶頭(さどう)としても仕え、堺において千家流茶の湯を広めましたが、利休没後、晩年の道安の消息については不明なところも多く、道安の没後、血筋は途絶えたようです。

もう一人の息子は、少庵(しょうあん。1546年〜1614年)といい、利休の後妻である宗恩(そうおん)の連れ子で、利休のもとで茶の湯を習います。やがて、利休とともに京において茶の湯を広めた人物とされます。

秀吉に切腹を命じられた者の息子として、利休死後は、それまでのような茶人としての活動は不可能となったのでしょう。少庵は、利休高弟の一人である会津若松の蒲生氏郷(がもう うじさと)のもとに身を寄せていました。

また、その息子宗旦(そうたん。1578年〜1658年)は大徳寺で修行をしており、千家は当時、一家離散の状態にありました。

しかし、利休逝去から数年後(1593〜4年)、秀吉の怒りも静まったのか、少庵は京に戻ることを許されます。この秀吉の赦免の意を伝えたものが「少庵召出状(しょうあんめしだしじょう)」と言われる書状です。

「少庵召出状」は、徳川家康と蒲生氏郷の連名で、大意としては次のように書かれています。

(秀吉様の)御意として申し入れます。あなたを召し出されるとの仰せですので、急いで上洛してください。そのことを申し伝えます。

十一月十三日
家康(花押)
氏郷(花押)

少庵老

こうして、少庵は京に戻り、大徳寺での修行を終えた宗旦とともに、千家再興に尽くしました。

「少庵召出状」は、千家の再興を意味する書状として表千家家元に伝わり、家元の新年の茶会にて、(秀忠の香箱と隔年に)残月亭の床の間に飾られて記念されるのが恒例になっているとのことです。

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