茶道・茶の湯の発展は、仏教とくに「禅宗」との深い関わりがあります。
歴史上の人物も含め、その歴史をカンタンに振り返ってみます。
「わび茶の祖」と言われる村田珠光(むらた じゅこう 1423–1502年)という人がいます。
「心の文」と呼ばれる文章を残しており、そこには、『茶の湯(茶道)が人間の成長をもたらす心の道』であるということが示唆されていて、禅的な思想が背景にあると思われます。
また、珠光は、大徳寺の住職であった一休宗純(漫画にもなった一休さんのこと)に禅を学び、「悟りの証」として「圜悟の墨跡(えんごのぼくせき)」を与えられていることからも、珠光の禅宗との関わりが見て取れます。
※「圜悟」とは、中国は宋の時代の臨済宗僧侶のこと。「墨跡」とは、筆跡。
ところで、「心の文」は、珠光がわび茶の祖と言われる所以でもあります。
「わび茶って何?」と思われる方も多いと思いますが、わび茶を定義付けするのは難しいので、代わりに、珠光が残した文章を一つ紹介してそのイメージをお伝えします。
「月も雲間のなきは嫌にて候」
これは、満月にこうこうと輝く月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい、という意味です。
こうした「不足の美」を楽しむ心は、わび茶の精神性を現しています。
(イメージ伝わったでしょうか??)
さて、茶の湯の中興と言われる武野紹鴎(たけの じょうおう 1502−1555年)という人がいます。
堺の商家に生まれた紹鴎は、若い頃には和歌を熱心に学び、連歌師でもあったようですが、31歳で出家し、のちに堺にある南宗寺(なんしゅうじ)という禅寺に参禅し、茶の湯に開眼、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」のわび茶を深めたとされます。
「茶禅一味」とは、茶の湯と禅の関わりを意味する禅語ですが、茶の湯と禅の本質は同じ、人間形成において茶の湯にも禅宗にも大差ない、というような意味合いです。
まさに、茶道と禅の深い関わりを示す言葉です。
なお、千利休(1522−1591年)は、19歳の時に武野紹鴎に弟子入りし、修行を積んで、現在では、わび茶を完成させた人、という位置づけになっています。
京都の北の方に、大徳寺という臨済宗の有名な禅寺があります。
初期の茶の湯は、経済的に豊かであった堺の商人たちの間で、文化教養として、社交の方法として広まりましたが、大徳寺から堺の南宗寺に来住した著名な禅僧と、こういった茶の湯者との交流も、茶の湯と禅の関わりを深めていったものと考えられます。
なお、かつて、応仁の乱(1467年)で荒廃した大徳寺を、一休宗純は、堺の商人たちの力を借りてこれを復興しています。
茶道の稽古は、知識で覚えるのではなく、何度も稽古を重ねて体で会得していくものとされますが、その方法は、禅僧が座禅を組みながら修行を深めていくことに似ています。
また、茶室の床の間に、禅語や禅の思想が書かれた「墨跡」を掛け軸としてかけることが多いのも、まさに、茶道の心と禅の心に共通するものがあることの現れと言えます。