美はどこにある?〜「知る力」より「観る力」〜

とても久しぶりに、目黒区駒場にあります日本民藝館に行ってきました。

日本民藝館とは、宗教哲学者である柳宗悦(やなぎ むねよし 1889-1961)を中心として1936年に設立された美術館で、無名の職人たちが作った民衆的工芸品を数多く所蔵しています。

柳氏は、モノは用の中にこそ美があるという「用の美」を重視し、こうした日常に使われる工芸品を「民藝」と名付け、日本民藝館を「美の生活化」を目指す「民藝運動」の拠点としました。

名の知れた人が作った高値の美術品や、鑑賞されるだけの名品だけが「美しい」のではなく、「美」はもっと生活に密着して私たちの身近にあることを、概念としても広めようとされたのだと思います。

実際に、日本民藝館で鑑賞できる工芸品は、すべてかなりの「使用感」があるものばかりです。使っていた人の息吹が感じられます。

さて、柳氏の著書に、「茶と美」というものがあります。

表紙は、お茶の世界では有名な、国宝指定されている「喜左衛門井戸(きざえもんいど)」と呼ばれる茶碗です。

茶道具の名品は数多くあれど、柳氏は、この喜左衛門井戸茶碗こそ「天下一の器物」といい、「茶碗の極致はこの一個に尽きる」「茶美の絶頂がそこに示され」・・・と絶賛しています。

そして、その天下の名器について、このように叙述しています。

「平々淡々たる姿」
「世にも簡単な茶碗」
「貧乏人が普段ざらに使う茶碗である」
「使う者は無造作に使ったのである」
「自慢などして買った品でない」
「削りは荒っぽい」
「(職人は)釉をこぼして高台にたらしてしまった」
「職人は盲目である」
「安物である」
「(職人は)こんな仕事して食うのは止めたい(と思いながら作っている)」

・・・・などなど。ボロクソです(笑)。

そして、「それだからいいのである。それでこそいいのである。」と続くのですが(^ ^)、その理由を本からそのまま引用します。

坦々として波瀾がないもの、企みのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、奢らないもの、誇らないもの、それが美しくなくして何であろうか。へりくだるもの、質素なもの、飾らないもの、それは当然人間の敬愛を受けていいのである。

それに何にも増して健全である。用途のために、働くために造られたのである。それも普段使いにとて売られる品である。病弱では用に適わない。自ら丈夫な体が必要とされる。そこに見られる健康さは用から生まれた賜物である。平凡な実用こそ、作物に健全な美を保証する。

「茶と美」柳宗悦著

そして、この一見ただの飯茶碗であるはずの器物の中に、「観る力」だけで美を見出し、熱愛し大切にしてきた昔の茶人の審美眼に深い敬意を表しています。

ちなみに、この喜左衛門井戸茶碗は、このブログでも紹介したことのある島根の松平不昧公(まつだいら ふまいこう)の手に渡り、しばらく不昧公の熱愛の品でありました。

もっとも、これまた興味深いのですが、この茶碗を所持する者は腫れ物の祟りに見舞われるという伝説があり、実際、不昧公も2度の腫れ物に病み、奥様から売り払うように諌められていたそうです。しかし、不昧公はその熱愛を貫き通し・・・とはいかなかったようで、結局、菩提寺たる京都大徳寺孤篷庵(こほうあん)に寄贈されたそうです。1813年6月13日とのこと。

ちょっと話がずれましたが、

「茶と美」という書籍が教えてくれているのは、この井戸茶碗に美を見出した昔の茶人の審美眼のような、「観る力」の大切さです。

美は、外からの情報で知るのではなく、そのものを目の前にして見て、触れて、論じるものなのだと・・・。

これはつまり、柳氏が、昔の茶人とは違い、「名品」とすでに認定されているものを、「観る力」より「知る力」に頼って有難い品として崇めるようになってしまった今のお茶の世界の風潮を批判しているということでもあります。

確かに、喜左衛門井戸茶碗も、国宝だと認定されていなければ、果たしてどれだけの人が「すごいお茶碗」と思うでしょうか・・・・。

茶道では、茶道具を大切に扱い、鑑賞するということをとても重視します。

文字通り、観て、触れて、使って、その器物を味わいます。こうして、モノを見る目を養っていくことも茶道の面白みの一つです。

もっとも、それも、形式的になものになってしまうことは往々にしてあると思います。

結局、その人自身がどこまで「向き合えるか」なのでしょう。

日本民藝館にいって、久しぶりに「茶と美」を読み返しました。

改めて、私自身も、普段のお稽古はもちろん、日常生活から、私の「観る力」と内から湧き出る「感性」を信じて、審美眼を養っていきたいものだと感じた次第です。

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