茶道の魅力 その⑤「咀嚼のいらない時代に想う、咀嚼する面白さ」

林先生(「今でしょ!」の人)がインタビュアーをされている「日曜日の初耳学」という番組があります。先日、オダギリジョーさんがゲストで出演されていた回を観ました(youtubeで)。

オダギリさんは、メジャー映画より、いわゆるミニシアターで上映されるような、個性的な作品を選んで出演されることが多いのですが、その理由の1つが、

「メジャー映画は、大多数に見てもらうために、より分かりやすく、平べったい内容になりがち、深いところを深めづらいものとなるから」


というようなことを言われていました。

そして、それを受けて林先生が、オダギリさんの発言に賛同するかのように、

「(今の世の中が)咀嚼のいらない時代になっている」

と言われたんですね。

その後のお二人の会話の具体的なことは覚えていないのですが、

「咀嚼のいらない時代」

というワードは、すごく言い得ているなと感じ、記憶に残っています。私も常々そう感じているからです。

人は、何かを選択する時、自分で選んでいるようでいて、実際には、意識的・無意識的に受け取っている情報に「選ばされている」ものです。

それは、何か物を買う時もそうだし、自分の好き嫌いや考え方も、マスコミやSNS、家族や友人などの人間関係等々、周囲の影響を受けて、それが「自分で」考えたことだと思い込んでしまいます。

もちろん、それでも結果的に、「自分の考え」だと言って間違いではないのですが、、、

何を言いたいのかといいますと、、、近年、情報の受発信手段が多様で安易になったこともあり、林先生のいう通り、自分で深く思考することを妨げるような世の中になっていやぁしないかい?!ということなんですよね。。

事実、この「日曜日の初耳学」という番組、林先生という名インタビュアーを起用しながらも、他のスタジオ(?)に芸人さんが複数いて、林先生とオダギリジョーさんの対談の合間に、ちょくちょく、コメントやリアクションを挟んでくるという構成になっています。

(ん〜・・・これ、必要??)

番組を見ている視聴者が、インタビュアーとゲストの会話にどういう感想を抱くのかすら、自由に感じることを「妨げている」かのように私には見えます。

「妨げる」というより、「誘導する」という方が正確かも知れません。

おそらく、テレビは特に、こうした娯楽番組に限らず、ニュースなどの情報番組でも、似たような構成が多いのでしょうけど。。。

その番組の出演者(林先生)が、「咀嚼のいらない時代になっている」と言っていること自体、なんだか皮肉っぽくて面白いですが。

さて、人間は、(程度の差はあれ)学ぶことに喜びを感じる生き物です。成長欲も、人間のもつ強い欲求の一つです。

茶道を始める方も、日本のおもてなし文化を知りたいとか、歴史を知りたいとか、茶道具のことを知りたいとか、和室での礼儀作法を身につけたいとか、なんか良く分からないけどその魅力に触れてみたいとか・・・・色々、漠然とした何らかの知的欲求があるからこそ、お稽古を始めていると思います。

これはとても大切なことです。しかも、「漠然とした」というところが、ミソです。

お茶をやって何を身につけられるのか、何ができるようになるのかetc、そんな明確なことは、始める前から分からない方がいいのです。

というか、分かるわけがないのです。

漠然とした興味から始まり、お稽古を通して、自分が予め予想してもいなかった何かに「気づく」「分かる」ことこそ、本当の学びです。そして、だからこそ、稽古は面白くなります。

ネットでは、趣味や稽古事の教室を探せる検索サイトがあり、そこに私も教室の登録をしようかと考えたことがあります。しかし、サイトに掲載するには、「この教室に通うと、『何ができるようになるのか』『何が身につくのか』『分かりやすく説明する』」ことを求められ、妙な違和感を感じ(笑)、結局、そういうサイトには登録しませんでした。

茶道は400年以上にわたり、時代により多少の変化を遂げながらも、日本的な美意識や精神性といった核たる要素は継承され、「日本的なるもの」を感じることができる文化・稽古事です。

「これやったら、そこに行ける」みたいなものでもなく、

オダギリジョーさんも言っていた、「咀嚼する面白さ」があるのが、お茶の稽古だと思います。

ということで、茶道の魅力 その⑥ でした!

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