この年末年始は、茶道の歴史に関わる書籍を読んで過ごしました。
今、茶道というと、女性の習い事というイメージを強くもっている方が多いですが、茶道の長い歴史を見れば、元々は男性のものだったことは明らかです。
男性より女性の茶道人口の方が圧倒的に多くなったのは、明治維新という大きな社会変革があったことが一因です。茶道という文化に対する庇護が少なくなり、茶道人口が減っていくという厳しい境遇に置かれた家元等が尽力し、女子教育に茶道が組み入れられるようになったからなのです。
伝統文化とは、関わってきた人たちの努力によって、存続しているのですね。
このような長い歴史のある「茶道」の原型は、明治維新よりもっと前の時代に作られています。とりわけ、足利時代から続く、信長・秀吉の戦国時代にその成熟はありました。
茶会が政治と密接に関わり、武士の間での儀礼的側面として、茶道は武士や大名の間に広まっていったのです。
そして、その時代の中心にいた人物こそが、千利休です。
利休は、信長、秀吉政権において、茶をもって権力者に仕える「茶堂」でした。また、歴史に名を残す多くの戦国武将は利休の茶の弟子衆でした。
生きるか死ぬかの戦国時代ですから、今みたいな「お茶の先生」ではもちろんないと思いますが・・・。
・・・といったことを、もっと、家元や、家元に近い研究者の出している書籍から学ばなければと常々感じていたこともあり、色々取り寄せて読んでいるのです。
今まで全く勉強して来なかっただけに、今更ですが、歴史の面白さに気づいてしまいました。そのうち歴女になりそうな勢いです。
さて、読んだ本の中で、「え、そうなの?!」「そうだったの?!」と興奮を覚えることがたくさん書いてあって、今回ご紹介しようと思ったのが、
「利休の生涯と伊達政宗 −茶の湯は文化の下剋上−」です。
著者は生形貴重(うぶかた たかしげ)氏、茶道文化論の研究者であり、表千家宗匠のお一人でもあります。
「え?伊達政宗?利休の切腹と伊達政宗って関係あるの?!」
と思われる方は多いのではないでしょうか。
はい、そうなんですね〜〜関係ありありなんです(^ ^)
利休が秀吉の勘気を被り、自刃により死を迎えたことは有名ですが、その理由には諸説あります。
よく言われるのが、大徳寺山門に掲げられた利休像が秀吉の怒りを招いたとか、茶の湯に対する考え方の相違から埋められない溝が二人の間でき、利休は切腹を強いられたとか・・・・
しかしどれも、ピンと来ない話だとは思っていました。
利休像が作られたのは、利休切腹の1年以上前のことですし、茶の湯に対する考え方の相違といっても、利休はあくまで仕える側の人間ですし。。。
元々私は、当時、政権内になんらかの政治的な対立があって、その対立抗争に巻き込まれたことで利休は自刃するに至った、それも、もしかしたら生き残る道もあったけど、利休が頑なに自分の信念を貫いたからこそ自刃で最後を遂げた、のではないかと、ふんわりと、思っていました。
そしてこの本は、おおむね、私の想像していたとおりだったことを、ふんわりではなく(笑)、さまざまな史料を紐解きながら解説してくれていたのです。
ということで、詳しく知りたい方はぜひこの本を読んでいただければと思いますが、ざっくりと利休切腹の真相を説明しますと・・・
天下統一を目指す秀吉政権において、小田原の北条氏や東北の伊達氏対策を巡って、強硬派の石田三成のグループと融和派の徳川家康のグループの間で対立関係が生じていた。
(前者は信長ブランドはもはや不要、秀吉の恩に報いるべく秀吉ブランドの天下統一を目指す。後者は信長時代からの戦国下剋上の気概を持ち続けた武将たち。こちらは、利休の弟子衆と重なり合う。)
伊達政宗は、自ら会津を放棄、謝罪して秀吉に臣従を誓ったことで赦免された。このことは、伊達氏の勢力を滅ぼしたかった石田グループの敗北でもあった。
その後、会津で発生した一揆は政宗が黒幕だという雑説・讒言を石田グループが広め、政権内部が混乱。その責任が問われかねない事態になった石田グループは、雑説・讒言問題究明の矛先を、利休にすり替えた。それが、大徳寺山門修復(利休像)問題。
大徳寺山門修復は、石田三成と対立する大名グループや大徳寺関係者も協力しており、この問題を取り上げることは、石田側から伊達擁護派への強烈な政治的メッセージであった。
利休は、政宗上洛まで、秀吉と政宗の取次役でもあり(利休は、そういう微妙な役回りを色んなところでこなしていたわけです)、政宗擁護派トップの一人であった。
それ故、政権の分裂・対立を回避したい秀吉は、伊達問題解決のため、政治的な苦渋の決断として、利休を政治から追放することにした。トップの一人に責任を取らせて問題を解決するというのが、秀吉の問題解決のパターンであった。
・・・と、ざっくりふんわり、こんな感じかと思います。
もちろんこれは、この本の著者の見解です。
しかしながら、これまでの茶道史研究においてきちんと検証されてこなかった「伊達家文書」を中心とした史料から、利休の死の原因について実証的に明らかにされています。
そして、当時の手紙や記録資料など、さまざまな史資料をもって、登場する人たちの内面を深く理解しようともされている著者の見解には、私も賛同するところが多かったです。
戦国時代というと、今の私たちではなかなか想像し難い世界であり、当時に生きた人たちの心理は簡単に理解できるものではないと思われます。
しかし、歴史を調べてみると、茶の湯が政治的な側面をもちつつも、戦国を生きた武将たちが、茶の湯にのめり込んでいたことも事実だということがわかります。
そして、その中心に利休がいました。
面白いと思いませんか???
なお、戦国武将がのめり込んだ茶の湯の魅力について知りたい方は、(このブログにも色々書いてはいますが)ぜひお稽古を始めてみてくださいませ^ ^
この書籍は、戦国時代における茶道史を知る上で非常に勉強になる本でした。
また、史実についてはさまざまな解釈があれど、やはり私たちはもっと歴史に学ぶ必要があるんだろうということも実感しました(今さら)。
そして何より、さまざまな史料を守り受け継ぎながら、(世間の解釈がどうであろうとも)利休が確立した「茶道」というものを、ただひたすら後世に伝え続けている家元、および茶道具をつくり続けている職家の方々の存在の偉大さについて、改めて感じたのでした。