茶会では、亭主は色々な茶道具を準備しますが、掛軸はとりわけ入念に選ばれ、その時の茶会のテーマや亭主の趣向を表していると言われます。
掛軸が床の間という場所に飾られ、客が席入りした時にいちばん最初に拝見する道具であることからも、掛軸が茶会においてもっとも重要なものの位置づけにあることが分かります。
このブログの他の記事でも触れたことがあるように、お茶の世界は歴史的に禅宗との関わりが深いこともあり、禅語が書かれた軸が多く見られます。
写真は、今年の最初の稽古でかけた軸です。
コロナ禍が始まって早や1年以上。
見えないものを扱うメディアはたやすく人の感情を動かし、人は恐怖や不安に敏感に反応します。
何が真実なのか、正解なのか、分かりづらい。
私たちが拠って立つべき道理とは何なのでしょうか。
「松無古今色 竹有上下節」・・・松に古今の色なし、竹に上下の節あり
写真の掛軸は、この対句となっている禅語の上の句が書かれたものです。
松は年中青々とした常緑樹であり、今も昔も変わらない姿をしています。
これは、物事の道理や原理は、いつの世でも変わることがない普遍的なものであり、またそうでなければならない、ということを教えてくれる禅語です。
松はその象徴なのです。
一方、全く何も変わらない・違いがないのかというとそうではなく、竹に上下の節があるように、区別や違いは存在する。
普遍(不変)の中に区別や違いがあり、区別や違いの中に普遍(不変)もある。
難しいですね(笑)。
ただ、私がこの禅語を見てひとつ思うのは、「自然の摂理」は普遍的なものだろうということがあります。
地球は、生命体としてバランスをとりながら存在していると思うし、人間も地球という生命体の一部であることを考えれば、人間一人ひとりの生命活動すべても、自然の摂理にかなったものとして、起こるべくして起こっているのではと考えます。
ところで、人間にもっとも大切なのは、生き残る能力だと思いますが、それには、動物としての感覚である五感がとても大切です。
お茶のお稽古は、そういった五感が養われるものであります。
そこにIT的要素?はありません。
自分の感覚や五感を頼りに、太古の人々が自然に向き合い獲得してきた叡智や美意識を、道具や作法を通じ学びます。
なるべく、自然のあるがままの作用を尊重します。
外に何かを求めるのではなく、すでに自分の中にすべてがあると考えるのは、禅的な思想ですが、お茶も、まさに、そうした「拠って立つ何か」を教えてくれる気がします。