松下幸之助と茶道 〜お茶の心に見出した、素直な心〜

松下幸之助氏が茶の湯を嗜んでいたということは聞いたことがありましたが、どんなふうにお茶人だったのか、知りたいなぁと思っていました。

昔の経営者・事業家にはお茶人だった方が多いですが、松下幸之助というと、「経営の神様」と生前から尊敬される人物であっただけでなく、死後、あらゆる人が「松下幸之助論」を語っていることで、ますますそのカリスマ性が高まっている感じが、何だか千利休にちょっと似ている気がしていて(?!)、個人的に気になっていたのです。

そんな中、見つけた本が、

「松下幸之助 茶人・哲学者として(谷口全平・徳田樹彦著)」

私の想像をはるかに超えて、幸之助氏にとって、茶の湯は、生活・生き方・精神性の一部になっていたんだなぁということを知りました。

幸之助氏は、戦前(昭和12、3年頃)、ある事業家宅で催されたお茶会に呼ばれたものの、お茶の嗜みがなく恥ずかしい思いをし、そこに来ていた小林一三氏(阪急電鉄を作った方で、ブログでも取り上げました)に「松下はん、商売だけではあかん。日本文化も知らなあかん」と言われ、おなじく席に呼ばれていた茶道の宗匠のもとでご自身もお茶を習い始めたとのこと。

京都東山山麓にある幸之助氏の別邸「真々庵」は、約1500坪、数寄屋作りの建物と東山を借景にした池泉回遊式の庭で成り立つ広大な敷地で、ある財界人から幸之助氏の手に渡ったものらしいのですが、幸之助氏は、自身の好みでお茶室「真々」も作られています。

内外のさまざまな客人と、そこでお茶席を共にされたようです。

昭和42年、イギリスの著名な歴史家アーノルド・トインビー博士夫妻が訪れた際に、幸之助氏はお茶を呈し、博士との対談で次のように語ったといいます。

戦国時代の武将はことのほかお茶を愛好した。殺伐な“動”に対して茶道の”静”。物に対する心というか、物心一如というか古来日本人は生活態度のなかにその両面を求め“動”がはげしければはげしいほど”静”を愛した。

”静”に徹するとき、ものに動じない心の落ち着きが生まれる。お茶をたてているとき、飲んでいるとき、仮に大事が起こったとしよう。思わず茶杓を落とす、茶碗を壊す、これは決して茶人の姿ではない。変を聞いてなお沈着でいる茶人の心境は、武芸の達人のそれと通ずるものがある。

引用:「松下幸之助 茶人・哲学者として(谷口全平・徳田樹彦著)宮帯出版」

だから

「茶などやる暇がない」という財界人ほど、茶の道に入る必要がある。「この道に入ることによって生まれる心のゆとり、これが必要だ」

引用:同前掲書

幸之助氏は、他のいわゆる近代数寄者と呼ばれたような事業家たちとは少し異なり、道具に執着する逸話は残っていないようなのですが(もちろん、名品も所有されてはいます)、自身でお点前をするのがとてもお好きだったそうです。

朝、茶室に入る時のことを

庭にある二坪(一畳台目)のお茶室に入る。ここで自ら一服のお茶を点て、それを味わうのだが、この朝の行事のうちに、僕はいい知れぬ心のやすらぎを得るのと同時に、その日1日の心のととのえをするのである

引用:同前掲書

と語られています。

この写真からは、そんな幸之助氏のお点前の息づかいと、まさに「心のととのえをする」様子が伝わってくるように思います。

写真:同前掲書

また、幸之助氏は、15もの立派な茶室を寄贈しています。

和歌山の高野山金剛峯寺、大阪城西の丸庭園、大阪四天王寺、岩手中尊寺、国立京都国際会館などなど、そして晩年には伊勢神宮に107坪もの敷地をもって、「300年後にも誇れる茶室を」と数寄屋大工中村外二氏に依頼し、広間席十畳と九畳、小間席四畳半を設えた昭和の名茶室建築を作りました。

幸之助氏は、頼まれるがままに?茶室を寄贈してきたらしく、伊勢神宮の茶室も、伊勢神宮側から依頼があったものとのことです。

また、幸之助氏は、茶室という箱を寄贈するだけでなく、茶道具やメンテナンス料もつけて寄贈したそうです。茶室も本当に「使われてなんぼ」ということを良くお分かりになっていたからではないでしょうか。

幸之助氏は、「人間とは何か」を深く追求し、人間が物心一如の調和ある繁栄を実現するには、「素直な心」でものを見る「心のありよう」が大切だと説きました。

「素直な心」というのは、

「何か一つのものにとらわれたり、一方に片寄ったりしない心」

「私心なく、ものごとをありのままに見る心」

のことで、そうした素直な心になれば、

「物事の真実の姿、実相というものが見えてくる。何をなすべきか、何をなすべきではないかということも、誤りなく判断できるようになってくる」

と言われています。

もっとも、素直な心になることは、そう簡単ではなく、ではどうしたらその素直な心を養うことができるのか、自らに問いかけ、その答えを茶道に見つけたのです。

こうすればいいという的確なことは言えないが、ただ、数百年の伝統を持ち、その間ずっと心の落ち着きを養ってきた茶道というもの、お茶の心というものには、素直な心に通じるものがあるように思っている。

お茶席におけるいろいろな心づかい、お茶室の静寂なたたずまい、あるいは一服のお点前の中に、何か非常に心が洗われるというか、そのひとときには、ふだんなかなか持てないでいる心の落ち着きというものがごく自然のうちに得られるような感じがするのである。

そういう意味ではお茶の心というものは、とらわれない心であり、ありのままに見る心であり、いってみれば素直な心そのものではないかという感じも一面にはしている。

お茶というものは作法というか、形から入るわけで、その点、誰でも入りやすい。何か特別なきびしい修行をするというのでなく、お茶を味わい楽しみつつ、人間として大切な心の落ち着き、素直な心というものが養われてくるわけで、まことに好ましいといえよう。

引用:同前掲書

茶道は禅との深いつながりがあります。

掛け軸の禅語も、「何事にもとらわれない」「ありのままの心」が、仏心であり、本当は誰しもが仏心をもっている、ということを教えてくれます。

前述の幸之助氏の茶道に対する考え方も、非常に禅的なものの考え方に通じると思いますし、幸之助氏が、まさにそうした精神性を茶道に見出していたことがよくわかります。

最後に、「道」の奥深さとその面白さ、そして、私たちに必要な心の安らぎをもたらすものであると、茶道について語っている氏の言葉で終わりたいと思います。

もちろん、このお茶の道、茶道というものは、究めれば究めるほど奥のあるもので、その極意に達するようなことは、これはなかなかできないものだと思う。

しかし、ごく通俗的な表現をすると、茶の湯というものは非常に気分を落ち着かせるものである。あの茶室に入った時の気持ちほど楽しい時はない、といってもいいほどの和やかな安らぎ、余裕を感じさせてくれる。そしてゆとりというものこそ今日のお互いにとってきわめて必要なものではないかと思うのである。

引用:同前掲書

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