時々勤払拭(じじふっしきにつとめよ)。
お茶室でかけられる掛け軸に、よくみられる禅語です。
これは、「六祖壇経(ろくそだんきょう)」に出てくる神秀(じんしゅう)という禅僧の偈(げ)の一部です。
*偈とは仏教用語で、いわゆる詩句。
身是菩提樹 −身は是れ菩提樹(みはこれ ぼだいじゅ)
心如明鏡台 −心は明鏡の如し(こころは めいきょうのごとし)
時々勤払拭 −時々払拭に勤めよ(じじ ふっしきにつとめよ)
莫使惹塵埃 −塵埃をして惹かしむること莫れ(じんあいをして ひかしむることなかれ)
人間は本来仏であり、心も体も清浄だが煩悩にまみれている。だから、鏡を磨くように、「いつも」その曇りをふき磨いていかなければならない、という意味です。
家も、毎日掃除をしていればなんでもないのに、数日放置しただけで、散らかって落ち着かない状態になって、元に戻すのが大変になります・・・。
「いつも」綺麗にしておかないといけないということですね。
(ハイ、自分に向けて言っています。)
「時々に」とは「じじに」と読み、「ときどき」ではなく「いつも」という意味です。
私自身、最初にこの禅語が書かれている掛け軸を茶道具店で見たときに、読み方も意味も「ときどき」だと思いました。
しかも、「これって、仕事は時々したらいいっていう意味ですか〜?」とお店の人に質問したぐらいですから・・・。
「『いつも』しやなあかんっていう意味です。」って即答されましたけど(笑)。
毎日毎日、同じことを繰り返す。家の掃除や犬の散歩、日々変わりのない仕事だと思っていても、日々繰り返すからこそ、ちょっとした季節の変化に気づいたりできるものです。
スポーツ選手が毎日同じ基本練習を怠らないのも、同じことをひたすら繰り返すことが、何らかの「気づき」をもたらし、その道を究める重要な方法の一つだからではないかと想像します。
実は茶道の稽古も同じで、「型」を重んじて繰り返し稽古します。「型」を理屈として頭で知るだけではなく、からだで覚えることを目指します。
その積み重ねの中で、体のふるまい方だけでなく、人に礼をつくすことや、主客が心を通じ合わせること、大切にものをあつかう心身なども養われていきます。
時々に勤めることで、少しずつ、見えてくるものがあるのです。