やっぱり着たくなるキモノの不思議

私が着物を着るようになったのは、最初に通っていた稽古場の先生の素敵なキモノ姿を見て「私も着たい!」と思ったからです。

本を見ながら着る練習をして、着れるようになりました。着付け教室などは行ったことはありません。

最初の頃は、着物を着るのに、軽く1時間以上かかっていました(笑)。普通、洋服ではありえないですね。ただのヒマ人だと言われそうですね。

今でこそ、20分ぐらいで着れますが、それでも、着物を着ない人からすると、「そんなに時間がかかるなら、やっぱり着物は(着たいけど)着れないな」となる人も多そうです。

確かに、メンテナンスも含め、その手間暇が、キモノが洋服にとって変わられる大きな要因です。

たまに、キモノ通みたいな人が、着物は便利で快適だ、みたいなことを言っているのを雑誌などで目にしますが、「便利さ」や、暑さ寒さをしのぐ「快適さ」などからしても、やっぱり、着物は洋服より面倒なことが多いと私は思います。

うん、面倒です、絶対。(強調する必要ないですけど)

しかしそれでもですよ、それでも、やっぱり着たくなるのがキモノなんです!(笑)
面倒なことが、価値がないということではないのです。


「素敵」と単純に思えることはもちろん、帯や帯締めなどの「組み合わせの楽しさ」や、着ることでスッと背筋が伸びるような、「ちょっとした緊張感」みたいなものも、着物の魅力です。
ひとつひとつが「作品」という感じがするのも、手にとってしまう理由かもしれません。

ところで、洋服は、人間の体に合わせて曲線で作られていますが、着物は、そもそも直線の反物から直線縫いだけで作られています。畳めばぺたんこです。

着物は「着る人間が着物に合わせる」ところがあるんですよね。

でも、一方で、衿や裾の合わせ方や、腰紐などの締め具合は、着る人間が自由にできるものでもあります。

不思議です・・・


100歳を超えても現役の画家として世界的に活躍された篠田桃紅(しのだ とうこう)さんが、このように表現していました。

着物は、結局一枚の布だから、着るというより、「まとう」。

着物は、袖口から手を出すというような、具体的なことでなく、全体で着るので、つまり、身の動きを部分的でなく見せ、形にする。

「朱泥抄」篠田桃紅著

ほぼ全身を覆う着物は、そうですね、「まとう」という表現が合っているように思います。

全身にまとわれた布地が、身の動きをつくる、というのもしっくりきます。

今、茶道教室で、着物を強制しているようなところは(多分)ないと思います。私の教室も、もちろん洋服で参加可能です。

ただ、茶道における所作は、着物を前提にした所作で成り立っていますし、着物を着ていた時代の文化芸術に触れるのが茶道でもあるので、もし、着物でお茶のお稽古ができれば、なおより深く茶道を楽しむことができるかも知れません(^ ^)

着物の不思議はもっと書きたいことがあるのですが、長くなったので、次回に。

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