茶の湯は政治家の資金集めパーティだった?

今、茶道というと、世間では「習い事」特に「女性の習い事」というイメージが強いかと思います。

しかしながら、実は、そういったイメージは、19世紀後半の明治維新を契機に、茶の湯文化が衰退していったことに理由があります。

なぜ明治維新を契機に茶の湯文化が衰退していったかというと、茶の湯が大名や武士によって支えられていた部分が大きかったからです。
また、文明開化という西洋化の波により、茶の湯という伝統文化も顧みられなくなったということもあります。

こうした厳しい時代の中、伝統文化を守るべく、家元などの努力により、茶道が女子教育に組み込まれたという背景があるのです。

歴史を遡ってみると、茶の湯がもっとも華やかで、かつ政治利用された時代は安土桃山時代でした。

ご存知、織田信長と豊臣秀吉の時代です。
二人とも、茶の湯を愛した天下人でした。


信長は、各地の名物道具を強制的に収集し(「名物狩り」と言われます)、「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と称して、特定の家臣に茶の湯を許可していました。
茶の湯に武家儀礼としての資格と政治的権威が与えられたのです。

そして、秀吉政権のもと、茶の湯の政治化は最高潮を迎えます。

京都御所にて、正親町天皇に茶を献じた禁裏茶会(1585年)や本ブログでも以前紹介した北野大茶の湯(1587年)など、秀吉は自身の政治の舞台を茶の湯で華々しく飾りました。

北野天満宮月釜と北野大茶の湯のこと

そして、こうした茶の湯全盛時代に、茶堂(さどう:主君に使える茶人)として権力者の右腕となり各種の大茶会をプロデュースしたのが千利休だったわけです。

信長と秀吉は、多数の名物道具を所持し、茶会を開くことで、その権勢を天下に知らしめました。
そして、各地の大名や豪商が招かれた茶会は、今でいう政治家の資金集めパーティでもあったと考えられます。

茶道という文化が、茶を喫するという行為に始まり、時代に影響されながら、形を変えながら、発展・変化してきたことがよく分かります。

もっとも、派手に政治利用されたのも、茶の湯という文化芸術に魅力があったからに違いありません。

そして、信長、秀吉という茶の湯に取り憑かれた権力者と、利休という、おそらく稀代のクリエイターが、同時代を生きた偶然(必然?)があったのだと思います。

では、現代に目を移すと、いかがでしょうか。

茶道・茶の湯人口は決して多くはないのかも知れません。政治に積極利用されることもなさそうです(笑)。


しかし、一昔前よりも、その価値になんとなく気づいて、興味を持っている人が増えていると私は感じています。

「ZEN」「マインドフル」という言葉が流行ったことも理由にあるかも知れません。

茶道のお稽古も今はさまざまなタイプがあるようですが、私の教室では、五感を研ぎ澄まし、季節の移ろいを楽しみ、自然の摂理や古人が残してくれたものから学びを得て、自分の徳や美意識を少しずつでも高めていくものでありたいと思っています。

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