平常心(びょうじょうしん)

平常心是道(びょじょうしんこれどう)という有名な禅語があります。茶席の軸にもよく見られます。

「平常心」は、今の日本語だと「へいじょうしん」と読み、「平常心を保つことができた」といった風に、冷静さや落ち着きを意味するかと思いますが、この禅語での「平常心」は読み方も意味も少し異なります。

8世紀、中国四川省に馬祖道一(ばそどういつ)禅師という有名な禅僧がおり、ある時修行僧が、この馬祖禅師に

「如何なるか是れ道(=仏道とはどういうものですか)」

と尋ねたのに対し、馬祖禅師は

「平常心是道」

と答えたというのです。

意味は、

『禅の心(仏心)を追求するには、特別な修行や奥深い思索が必要なわけではない、平凡な日常生活の中にこそ、仏となる道は隠されている』

ということだそうです。

この「平常心(びょうじょうしん)」の意味について、北鎌倉にある禅寺「円覚寺」の管長である、横田南嶺老師のお話にもありましたので、こちらも紹介します。

(最近の私のモーニングルーティンは、毎朝、YouTubeで配信されている横田老師のお話を聴きながら、ストレッチをして、毎回1分瞑想をすることなのですが(^ ^)、その配信の中で聞いたものです。)

横田老師は、各所で公演・講義もされているとても有名な方ですが、何度人前で話しても緊張されるそうです。(老師であっても、いつでも「平常心(へいじょうしん)」であるとは限らない、のかも知れません)

しかし、老師が仰るに、馬祖禅師が説いた「平常心是道」は、こうした緊張した心も含め、「日常にはたらく心のあり方」がそのまま悟りだということなのです。

迷いを捨てて悟りを得ようともしない。
今の自分の心を否定しない。

横田老師のお話、なるほど、と頷けます。

さて、話を戻しますが、茶道というと、茶室という空間で、やや儀礼的な所作をもって茶会がなされる、日常とは少し離れた行為とも言えるのですが、一方、突き詰めれば、お茶を振る舞う、飲む、そこに主客のコミュニケーションが生まれる、という、実のところ、日常生活の行為とさほど変わらない、とも言えるのです。

こうした点からすると、茶道も、日常にはたらく心のあり方、すなわち「平常心」が、そのままお茶の道、すなわち「是道」なのであり、そうした思想が背景にありつつ、稽古がなされるのです。

そして、茶道の稽古で学んだことや気づき、その精神性が、普段の生活や自分のあり方にも徐々に生かされていくのだと思います。

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